服部ケサ Hattori Kesa

「人。その友のために生命を捨てる。これより大いなる愛はなし」。 ハンセン病患者のために一生を捧げる

服部ケサ 「人。その友のために生命を捨てる。これより大いなる愛はなし」。わずか40歳という短い人生を、この言葉どおりにハンセン病患者への献身的な治療に棒げた、熱心なクリスチャン女医・服部ケサは、ここ須賀川に生まれました。

 ケサの兄・躬治は、歌人で国文学者、また妹・てい子は、水野仙子の名で知られる女流作家で、ケサとともに「服部3兄妹」として、その名を今日に残しています。ケサも兄の影響を受け、文学を志し上京。与謝野鉄幹と晶子の主宰する「明星」や、河合酔茗の「女子文壇」に投稿するなど、早熟な文才と情熱には、目を見張るものがあったと言われています。

 しかしその後は、家族の相次ぐ疾患と、その看護に当たったことが、ケサの志に大きく影響を与え、医師を目指すことになりました。

 明治38年8月、21歳で現在の東京女子医大に入学。両親との死別という悲しみを乗り越え、医師への志をさらに強くしたケサは、大正2年2月、最難関の医師試験に合格しました。

 その後、看護婦として勤めた東京三井慈善病院で、多くのハンセン病患者と出会ったケサは、その病状に心を痛め、その治療に一生を捧げることを決意し、その治療法を光田健輔・府立全生病院長から学びました。

 ちょうど同時期、イギリス人コンウィール・リー女史は、ハンセン病患者の救済を目的とした草津聖バルナバ医院を開設しています。そして大正6年11月、ケサは、その後の医療活動を支えてくれることとなる三上千代子とともに、この聖バルナバ医院に赴任したのです。

 そしてケサは、赴任と同時に休む間もないかのように、仕事に打ち込み、ハンセン病患者のみならず、地域の医療を支える医師として活躍するうち、いつしか、ハンセン病患者のための理想郷をつくることへの思いを強くしていました。そしてついに大正13年、群馬県草津町栗生の湯ノ沢地区に、日本人として初めてのハンセン病専門の「鈴蘭病院」を開業したのです。

 しかしこの間の激務は、ケサの体力をひどく消耗させており、開業からわずか23日目にして、突然の心臓発作が襲い、帰らぬ人となりましたが、その後もケサの願いは受け継がれました。

 鈴蘭病院は、昭和6年に閉鎖となりましたが、翌年、湯ノ沢地区に国立の療養所である栗生楽泉園が開設されました。