最終更新日2014年11月20日

円谷英二 Tsuburaya Eizi

 特撮映画の神様 
 ウルトラマンやゴジラの生みの親

円谷英二 今もなお、子供たちにはもちろんのこと、大人たちにまで絶大な人気を誇る「ウルトラマン」シリーズと「ゴジラ」などの怪獣シリーズ。

 これらの名作を生み出し、特撮技術を日本映画界に普及させたのが、円谷英二監督です。

 明治34年、本名を英一と言い、須賀川市中町の由緒あるこうじ屋に生まれた英二監督は、幼くして両親と死別しています。その後、祖母とともに暮らす英二少年は、小学校に入ったころから、飛行機に強くあこがれるようになりました。

円谷英二 そのため、少年時代は、飛行機や飛行船などの模型を作ることに熱中しながら、過ごしていました。そして、16歳の時に就職のため上京しますが、やはり、飛行機へのあこがれは捨て切れず、半年でその会社を辞め、羽田の日本飛行学校に入学してしまいます。

 ところがその学校は、練習機がただ1機のみ。そのうえ、潮の満ち引きに左右され、満足に飛行訓練ができない状況でした。さらに入学した翌年には、その練習機が墜落し、先生が死亡。ついには、閉鎖となってしまいます。そしてやむなく入学した神田の電気学校で、写真機のとりことなり、新たな道を歩むことになったのです。そして18歳の時に偶然出会った天然色活動写真の技師長の勧めで、映画会社に入社し、映画製作者としての第一歩を踏み出しました。

 大正14年、松竹京都撮影所に移り、にっかつを経て、昭和12年、特殊技術課が創設された東宝撮影所へと入社しました。その後は、冒頭でご紹介のように、特撮映画を次々と世に送り出し、その高度な技術力により、日本映画界を大きく前進させていきました。

 昭和29年には、円谷の名を日本中に知らしめた「ゴジラ」が誕生。数百万年も前に滅びた怪獣が東京に上陸。高圧電線に引っ掛かり、怒り狂い火炎を吐くゴジラの姿は、リアルさに満ちた特撮映像で、観客を大いに興奮、熱中させたのです。

 このゴジラのように、目の動きやビルの壊れ方一つにもこだわって製作された怪獣映画は、「モスラ」「ラドン」など、30本にも及び、また、その特撮技術を取り入れた「日本誕生」「世界大戦争」「山本五十六」などといった大作を合わせると、実に50本という映画に携わったことになります。

 そして昭和39年の東京オリンピックを機に、テレビが普及し始めると、円谷特技プロダクションを設立し、テレビ用の特撮怪獣もの「ウルトラQ」を手掛け、以来ウルトラ・シリーズを意欲的に製作し、その名を不動のものとしました。

 長年にわたり、数々のヒーローを世に送り出し、今日の人々にまで夢を届ける英二監督は、狭心症による発作のため、昭和45年1月、68歳の生涯を閉じました。

 そして今、その英二監督のふるさと、須賀川市では、そのヒーローたちに熱中した年代が、まちづくりの原動力となり、ゴジラのイルミネーションに代表される、ウルトラマンやゴジラのキャラクターを生かした、ハード・ソフト両面の「まち興し」に取り組んでいます。