最終更新日2014年11月20日

小林久敬 Kobayashi Hisataka

全財産を投げ出し、安積疏水の開通に尽力

小林 久敬 小林久敬は、安積疏水の必要性を強く明治政府に訴え、その実現に尽力し、現在の郡山市の基礎を築いた人物として、広く知られています。しかし、その生涯は、決して幸せなものではなく、波乱に満ちていたことが、多くの文献から明らかになっています。

 文政4年(1821)、須賀川の中町で町役人を務めていた小林久長の次男として生まれた久敬は、天保の大ききんを機に、幼いころ、父に連れられ訪れたことのあった猪苗代湖から、安積平野、そして岩瀬地方へと、湖水を引けば、多くの人々を救うことができるのではないかと考えるようになりました。

 そして、その思いはますます強くなり、30歳の時には、猪苗代湖と岩瀬地方が一望できる斉木峠に立ち、「必ず須賀川まで引くことができる」と確信しました。久敬は、この峠近くにトンネルを掘れば、高度的に自然流水が可能であり、かつ経済的にも時間的にも最良の策であると考えていたのです。 

 この斉木峠案を実現するため、久敬は、先祖代々の土地を元手に資金を集め、それでも足りない分は、地元の有力者たちにお願いしました。

 しかし須賀川の有力者たちには、「途方もないことを」と取り合ってもらえないばかりか、「斉木峠案では、須賀川まで水が来ないのでは」と懸念する多くの人たちから、強く反対されてしまいます。

 それでもあきらめずに奔走した久敬は、安積地方の人たちの賛同を得ることに成功し、全財産を注ぎ込んで、測量を行うなど、用水路づくりに打ち込みました。 

 ところが、明治12年、安積疏水工事に着手した政府と県は、失業した武士を熱海地区などへの開墾により救うため、久敬の斉木峠案ではなく、沼上峠への工事を進めていきました。妻子にも見放された久敬は、失意のもと、わずかに残っていた郡山の土地にあばら屋を建て、一人住み着き、疏水工事の現場で様々な進言を行いますが聞き入れられませんでした。

 しかし、この工事は、オランダからの招へい技師・ファンドールンの指揮の下、順調に進められ、わずか4年の短期間で安積平野へと通水したのです。
 形はどうあれ、通水式で、水門が開かれ、湖水が安積平野へと流れると同時に、30数年間、私財を費やし、情熱を注いだ久敬の悲願が、ついにかなえられたのです。

 そしてその2年後、郡山のあばら屋で、わずかな土地を耕し、自給自足の生活を営んでいた久敬は、その疏水実現への情熱と見識がついに政府に認められ、民間功労者として、新宿御苑の宴に招かれ、明治天皇から銀杯を賜るとともにその労をねぎらわれました。

 晩年は、病気がちとなり、不自由な生活を送っていましたが、郡山市の福祉事業の先駆者・鈴木信教・如法寺住職に賓客として迎えられ、明治25年、71歳の生涯を終えました。

 その後、昭和25年には、第2安積疏水が誕生し、現在では、岩瀬地方や須賀川まで、その恩恵による美しい田園が広がっています。また、須賀川市と郡山市には、久敬の句碑と顕彰碑が建てられ、その情熱が今も語り継がれています。