最終更新日2014年11月21日

須賀川と芭蕉 

漂泊のおもいやまず、「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉と河合曽良の二人は、元禄2年4月22日(陽暦6月9日)、須賀川宿に入り、当時の駅長・相楽等躬(通称伊左衛門)宅に草鞋を脱いだ。約300年前のことであった…。

芭蕉7泊8日の旅日記 


4月22日(陽暦6月9日)

十念寺句碑 「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉と河合曽良の二人は、4月20日(陽暦6月7日)福島県に入った。その日は旗宿(白河市)に泊まり、21日には白河の関や関山を見て、当夜は矢吹(矢吹町)に泊まった。22日、矢吹を発った芭蕉たちは、松並木の続く奥州街道を北上し、「鏡沼」(鏡石)に着いた。
 「鏡沼」には「吾妻鏡」の中の和田平太胤長にまつわる伝説や一種の逃水(蜃気楼)現象の伝説がある。しかしその日は、「空曇りて」物影を見ることはできなかった。須賀川に入った芭蕉たちは、須賀川本町の相楽等躬宅に着いた。等躬は通称を伊左右衛門といい、俳号は等躬(窮)のほか、乍単斎、藤躬などを号としていた。その夜、等躬宅に泊まった芭蕉と曽良は、等躬を加えて歌仙を巻いた。
風流の初や奥の田植えうた

4月23日(陽暦6月10日)

神炊館神社 23日には、昼過ぎまで等躬宅に居り、夕方に可伸の家を訪れた。可伸は俳人で、号を栗斎といった。可伸庵は等躬宅より四、五軒南の裏通りに近いところにあり、其処に大きな栗の木があった。可伸はそこに隠棲していて、僧可伸といわれたが寺の僧侶ではなかったらしい。この可伸庵のあった跡は、現在NTT須賀川支店の西側に復元整備されている。
 芭蕉たちは可伸庵からの帰りに、近くのお寺と八幡さまを参拝した。可伸庵から数軒ほど南に徳善院があり、可伸庵の西裏には岩瀬寺と八幡社があった。徳善院も岩瀬寺も明治の初めに廃寺となり、八幡社は神炊館神社と合祀されている。この八幡社の名残りが「八幡町」「八幡山」の町名となっている。

4月24日(陽暦6月11日)

可伸庵跡句碑 24日は相楽等躬宅では田植えの日であった。江戸時代の商人は町で商いをしながら、近くに田畑を持ち農耕をしていた。田植えも家人たちの手で行っていたのである。昼過ぎになるのを待って可伸庵を訪れた。そこには須賀川の連衆(俳人たち)が集まっていて芭蕉を迎えた。芭蕉は、可伸の静かな生活ぶりとその人柄に心を打たれた。ちょうどその日は、可伸庵わきの栗の木が花をつけはじめていたので、「隠家やめただぬ花を軒の栗」と発句をつくった(「曽良旅日記」)。この発句を受けて、そこに同席の七人で歌仙を巻いた。
 歌仙が終わってから、祐碩が一同にそばをふるまった。その日は午後から雷雨であったが、日暮れには止んでいた。

世の人の見付けぬ花や軒の栗

4月25日(陽暦6月12日) 4月26日(陽暦6月13日)

 25日は等躬の物忌の日であった。等躬は斎戒して飲食の火も別にきり出した火を用いていた。
 26日は小雨が降った。この年は雨が多く、芭蕉が須賀川に滞在中も曇りの日が多く、24日、26日と雨であった。

4月27日(陽暦6月14日)


芹沢の滝跡 27日も曇りであった。芭蕉と曽良と須賀川の連衆が芹沢の滝へ行った。芹沢の滝は須賀川市の西にある朝日稲荷神社のさらに西にある。滝の水源は蒲の沢池(鏡田地内)で、池の水が溢れ出すと芹沢の滝が水かさを増す。この滝は丘陵地の小川にかかる小さな滝で、この日は連日の雨で滝の水量も多かった。小さな狭間いっぱいに溢れ出る水は壮観だったことであろう。

4月28日(陽暦6月15日)

十念寺 28日は出発の日であったが、矢内彦三良が来て出発は延期となった。その理由について「曽良旅日記」に次のように記されている。
 須か川の駅より東二里ばかりに、石河の滝といふあるよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといゝて止ければ さみだれは滝降りうづむみかさ哉 翁
 案内せんといはれし等雲と云人のかたへかきてやられし。薬師也。(俳諧書留)
 芭蕉と曽良は須賀川から守山へ行く予定であった。守山に行くのには、三春街道を行くとすぐ近くなのだが、等雲(吉田祐碩)の勧めで石河の滝(乙字ケ滝)を見てから守山に入ることになった。ところが、連日の雨で川を越すことが出来ないからと、一日延期したのである。
 そして午後は矢内彦三良宅に行って、夕方まで彼の家で遊んだ。矢内彦三良は矢内弥一右衛門、素蘭の係累の者で、素蘭もその席にいたことであろう。帰りには十念寺を参詣し、さらに諏訪明神(神炊館神社)まで行った。

4月29日(陽暦6月16日)

乙字ケ滝29日は珍しく快晴であった。十時ごろ須賀川を発って石河の滝(乙字ケ滝)に向かった。滝壺のやや下流は床滑になっており、其処は徒歩で渡れるのだが、この日は水量が多くて渡れなかった。やむなくさらに下流の渡舟場を渡り、1キロも上に登って滝の南岸に着いた。滝の水かさが増しており、阿武隈川の川幅いっぱいが滝となっている豪快な眺めであった。
 石河滝を見てから、芭蕉と曽良は再び道を引き返し、小作田村に入った。小作田村は阿武隈川東岸の宿場で「馬次」であった。ここで阿武隈川に別れ、山間の街道を守山へと向かったのである。

五月雨の滝降りうづむ水かさ哉