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宇津峰【うづみね】
宇津峰は、標高約677mの阿武隈山系に属する独立峰で、山頂からは県南部が一望できます。この山には今から約660年前の南北朝戦乱の歴史が深く刻みこまれています。宇津峰は当時南朝方の田村氏の勢力下にあったことと自然の要害として最適であったことから、奥州南朝方の要として城が築かれました。興国【こうこく】元年(1340)鎮守府【ちんじゅふ】将軍北畠顕信【きたばたけあきのぶ】を吉野から迎え入れ、
さらに三品宮守永親王【みしなのみやもりながしんのう】(後醍醐天皇の孫)を奉じてここに国府と鎮守府をおいて北朝方の攻撃に備えましたが、正平8年(1353)5月、し烈な攻防戦の末、ついに宇津峰城は落城し、14年間にわたる戦いは幕を閉じました。
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須賀川一里塚【すかがわいちりづか】
一里塚は、今から約370年前の江戸時代に、当時の将軍徳川家康の命により全国の主要街道を改修した際築造されたものといわれています。一里塚は街道を行き来する際、距離を計る目安として、江戸日本橋を基点に一里(約4km)毎に築いたものです。須賀川の一里塚は、奥州道中(旧陸羽街道)に残る数少ないもので、東のものは径5m、西のものは径6mあり二基相対し塚形がよく保存されている点では奥州道中唯一のものであり、日本橋から59番目のものとされています。また、当時塚の上には榎【えのき】が植えられていたと伝えられ、街道を行き来する人たちが木陰で一休みする場としても利用されていたと考えられます。
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米山寺経塚群【べいさんじきょうづかぐん】
米山寺経塚は、市内西川の日枝(ひえ)神社境内にあります。明治17年に、神社本殿の改修をするため裏山にあった塚を整地した際、土中から青銅製の経簡【きょうづつ】や経文【きょうもん】を入れた陶製の簡などが発見されました。経塚は全部で10基発見されています。この経塚が造られた時代は今から約830年前の平安時代後期(承安【しょうあん】元年)で、当時末法思想【まっぽうしそう】(釈迦の死後1500年以降は仏法が滅び最悪の時代になる)が全国に広がり、これを恐れた人々が、将来、弥勒菩薩【みろくぼさつ】が出現してこの世を救うときまで経文などを土中に埋納して残しておこうとする目的で築いたものです。この経塚の中でも3号経塚は、ほぼ原形のまま保存され,平安末期における経塚の構造例として貴重であります。
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上人壇廃寺跡【しょうにんだんはいじあと】
この遺跡は昭和36年、JR東北本線複線電化工事に伴う発掘調査以降、数度にわたり発掘調査を行いましたが、その成果により奈良〜平安時代の貴重な遺構、遣物が発見されました。全国でも発見例の少ない六角瓦塔【ろっかくがとう】をはじめ、数多くの瓦、円面硯【えんめんけん】(高台のついた円い硯【すずり】)、土器類、さらに、規格性をもった堀立柱【ほったてばしら】建物跡などが検出され、当時の当地方における政治的施設と考えられています。特に続日本記【しょくにほんぎ】に記載されている養老2年(718)
の石背国設置(石背郡がそれまでの統治国であった陸奥国から分かれ、白河・会津・安積・信夫の四郡とともに石背国の統治下になった)に深く関わる遺跡と考えられています。
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須賀川の牡丹園【すかがわのぼたんえん】
この牡丹園は、今から約230年前の明和【めいわ】3年(1776)、薬種商(屋号 和泉屋)であった伊藤忠兵衛祐倫【いとうちゅうペえいゆうりん】が、薬用とする牡丹の苗木を摂津国【せっつのくに】山本村
(現在の兵庫県宝塚市)から買い求めて現在の牡丹園の地に栽培したのが始まりといわれ、当時はこの地を伊藤新田と称していました。その後(明治初年)、牡丹園は伊藤家から柳沼家に譲渡され、このときから牡丹園は観賞用として整備拡大されていきました。現在約10haの園内には、
290種、7000株の牡丹があリ,種類の豊富さ, 一つ一つの株立ちの大きさなど名実ともに東洋一の牡丹園です。見ごろは5月中旬です。
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銅鐘【どうしょう】(千用寺)
この銅鐘、元禄(げんろく)10年(1697)須賀川宿中町の藤井惣右衛門が発起人となって千用寺に時の鐘として寄進したと伝えられています。 藤井家は町役人として代々時鐘関係を取り仕切っていたらしく、安政4年(1857)の町益金(当時の町予算の財源)所調控によると
惣右衛門が時鐘管理金について差引整理した記録が残されていました。また、鐘撞人【かねつきにん】は、 町会所【まちかいしょ】から給金をもらっていたことなどもわかりました。千用寺は現在諏訪町にありますが、
当時は町の中央部である中町にあったことから、須賀川宿全体に聞こえる千用寺境内に時鐘を設置したものと考えられます。
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岩代米山寺経塚出土品
【いわしろべいさんじきょうづかしゅつどひん】
10基発見された経塚の内、三号経塚から出土した埋納品が一括重要文化財としてて指定されました。埋納品には、青銅製経筒【せいどうせいきょうづつ】、陶製外筒【とうせいそとづつ】、刀子【とうす】、銅鏡【どうきょう】、
銅製鍔【どうせいつば】、鉄鏃【てつぞく】があり、その内、陶製外筒の外面にはヘラ状のもので書かれた銘文がありました。これには、寺の名称(米山寺)、施入者【せにゅうしゃ】(経筒を埋納した人)の名前、年号(承安【しょうあん】元年)などが書かれており、米山寺の存在や時代が明らかになりました。この銘文に書
かれた施入者と年号が、飯坂町の天王寺経塚と桑折町の平沢寺経塚から発見された陶製の筒にも書かれていることから、双方に何らかの関連性があったものと注目されています。
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白河結城家文書附四月八日佐々宗淳書状
【しらかわゆうきけもんじょつけたりしがつようかささそうじゅんしょじょう】
南北朝時代、南朝の正当性を唱える中心人物北畠親房【きたばたけちかふさ】の自筆文書などが、市内本町の相楽家から発見されました。この文書は、 親房が常陸国【ひたちのくに】(茨城県)の小田・関の両城に約5年間滞在した際、
関東と奥州の境にあたる白河の地理的重要性と同地の領主結城氏の勢力を考慮し、同氏に南朝の正統を訴え、その軍事上の援護 を数回にわたって請願したものです。江戸時代になってから、
この古文書【こもんじょ】は徳川光圀【とくがわみつくに】によって調査されており、この事実は相楽家に所蔵する佐々宗淳(光圀の家臣)自筆書状(古文書借用に対
する礼状)によって明らかにされています。 (写真は白河結城家文書)
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絹本著色釈迦如来十六羅漢図
【けんぽんちゃくしょくしゃかにょらいじゅうろくらかんず】
縦長の綿地3枚に極彩色でかかれたこの仏画は、蓮華座【れんげざ】にのる釈迦如来図と16人の羅漢(仏の教えを修行し煩悩【ぽんのう】を断ち切り 人々の供養をうけるに相応しい人)をそれぞれ8人ずつ配した2
枚図の三幅からなり,各々が表装されています。描写は各羅漢 の個性、服装など細部に行き届き、特に釈迦如来がのる蓮華座 は精巧で宋画の影響を受けているものと考えられます。また、光背【こうはい】の縁取りに截金【きりがね】(金箔を細く切って極彩色の金色線を現す)
の技法を使っていること等から鎌倉時代末期の作品と考えられ ます。本図は東京の麻田駒之助氏(元中央公論社社長)から寄贈 されたものです。
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紙本墨書後水尾天皇宸翰御懐紙
【しほんぼくしょごみずのおてんのうしんかんごかいし】
この懐紙【かいし】(和歌・連歌などに書き付ける用紙)は、市内本町の相楽家が所蔵する白河結城家文書【しらかわゆうきけもんじょ】(南朝方の北畠親房【きたばたけちかふさ】自筆文書等、昭和
53年国指定重要文化財)が、江戸時代、水戸藩主徳川光圀【とくがわみつくに】によって調査(「大日本史」を編纂するための資料調査) された際、光圀から相楽家に贈られたものです。
春草 分みれば をのがさまざま花ぞ咲く
ひとつ緑の 野辺のおくさも
後水尾天皇(1596〜1680)は和歌に長じ、歌集「鴎巣集【おうそうしゅう】」などが あります。俳号は「玉露」といいます。
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土師朱墨二面円硯【はじしゅぼくにめんえんけん】
この硯【すずり】は、首藤保之助【しゅどうやすのすけ】氏(本市出身、阿武隈考古館の創設者、
昭和33年考古資料の大部分を本市に寄贈、市立博物館建設の基礎をつくった。)が昭和15年8月24日、千葉県市川市真間の土取り場から採集したもので、当時は甑【こしき】(米などをむす器具)の底と考えられていました。その後の研究で珍しい形の硯であることがわかりました。直径13cm、中央に堤があって硯を二分している
素焼きの二面円硯です。二面のうち右側には墨、左側には朱が残っ ており、また右側の下方には小さな穴があることから、紐を通
して下げたものと考えられています。
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