南部地区の標柱と「すかがわ絵地図」
市内の市街地の南部地区は、奥州街道の宿場町としての面影を残す歴史ある建物や、須賀川の職人文化・伝統工芸が残る地区です。また、松尾芭蕉が「奥のほそ道」の旅で8日間滞在し、地元の文化人と交流を深めたゆかりの地であり、現在でも芭蕉の句碑が建つ「可伸庵跡」など様々な名所旧跡が存在し、その足跡を偲ぶことができます。また、敷教第二舎(須賀川郷学所)が存したとされるなど、地域の学問や文化の発展に大きく寄与した地区です。
標柱の設置について
令和2年度、「俳句のまち須賀川」を発信し地域資源である歴史や文化を通して、南部地区からの回遊性を高める景観を創出し活性化につなげるため、NPO法人チャチャチャ21に委託し同地区に8基の標柱を設置しました。
相楽等躬屋敷跡
江戸時代の問屋業を営む豪商であり、須賀川俳壇の中心的人物。芭蕉は奥のほそ道の旅の途次、相楽等躬の屋敷に七泊八日滞在しました。
可伸庵跡
相楽等躬の屋敷の一隅に住んでいたと伝えられている僧可伸の庵跡。芭蕉は栗の木の下にある可伸の庵で等躬らと歌仙を巻きました。現在は「世の人乃みつけぬ花や軒の栗」と刻まれた句碑が建てられており、これは可伸のひっそりと暮らす様子に感じ入って詠んだ句です。
徳善院跡
二階堂氏の一族が創建したと伝わる修験宗の寺院。京都の聖護院の末院で、境内は東西二六間余り 南北一六間余りあり、白雲筆「岩瀬郡須加川町耕地之図」にも記されています。「曽良旅日記」によると、芭蕉は等躬宅に滞在した2日目、可伸庵を訪ねた帰りに近隣の「寺々」と八幡社(現在の市役所)を参詣しており、この「寺々」には、八幡社にも近かった徳善院も含まれていると考えられています。
本陣跡
江戸時代に奥州街道の重要な宿場町であった須賀川宿は参勤交代の大名行列なども宿泊し、本町には、大名が泊まる本陣が置かれました。
東裏通り
江戸時代の須賀川宿は宿場町であり、大名、商人、参詣の旅人、荷を運ぶ人馬が行き交う活気に満ちた問屋や商店が並ぶ商人の町でした。店が表通り(奥州街道)に面していたのに対し、この場所は裏通りにあたり、今に残る通り名に、商人たちの暮らしが息づいています。
敷教第二舎(須賀川郷学所跡)
寛政11年(1799)、白河藩主松平定信が、 一般庶民の子女などを教育するため開設した教育機関。郷学所の世話人には郷士の相楽七右衛門が任命されるとともに、師範には須賀川の町人が命じられました。開設後には須賀川の子どもたちだけでなく町人、役人なども入学し、多くの人々が読み書きに加え、算術や儒学などの教育を受けました。文化元年(1804)には、 出席者増加のため増築されたとの記録も残されています。
土蔵造りの商家
明治時代に建てられた須賀川の商店。須賀川の町には土蔵造りや格子造りの家が多く見られました。
奥州街道須賀川宿
須賀川の町は台地ですが、水が豊富で井戸が設置されました。文化元年(1804)に書かれた「須賀川古事来由記録」によると、井戸は中町に5ヶ所と本町に1ヶ所あり、宿場町として栄えた須賀川の町人たちの生活を支えました。
すかがわ絵地図の作成について
標柱を中心とした、まち歩きの促進のためNPO法人チャチャチャ21に委託し「すかがわ絵地図」を作成しました。
「すかがわ絵地図」は風流のはじめ館・文化振興課で手に入れることができます。
ぜひ、「すかがわ絵地図」を片手に、歴史と文化の街を感じるまち歩きにお出かけください。
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文化交流部 文化振興課
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