南部地区の標柱と「すかがわ絵地図」

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ページ番号1007573  更新日 令和3年2月18日

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 市内の市街地の南部地区は、奥州街道の宿場町としての面影を残す歴史ある建物や、須賀川の職人文化・伝統工芸が残る地区です。また、松尾芭蕉が「奥のほそ道」の旅で8日間滞在し、地元の文化人と交流を深めたゆかりの地であり、現在でも芭蕉の句碑が経つ「可伸庵跡」など様々な名所旧跡が存在し、その足跡を偲ぶことができます。また、敷教第二舎「須賀川郷学所」が存したとされるなど、地域の学問や文化の発展に大きく寄与した地区です。

標柱の設置について

令和2年度、「俳句のまち須賀川」を発信し地域資源である歴史や文化を通して、南部地区からの回遊性を高める景観を創出し活性化につなげるため、NPO法人チャチャチャ21に委託し同地区に8基の標柱を設置しました。

相楽等躬屋敷跡

江戸時代の問屋業を営む豪商であり、須賀川俳壇の中心的人物。芭蕉は奥のほそ道の旅の途次、相楽等躬の屋敷に七泊八日滞在した。

写真:相楽等躬屋敷跡

可伸庵跡

相楽等躬の屋敷の一隅に住んでいたと伝えれれる僧可伸の庵跡。芭蕉は栗の木の下にある可伸の庵で相楽等躬らと歌仙を巻いた。「世の人のみつけぬ花や軒の栗」と刻まれた句碑が建つ。可伸のつつましい生活と人柄に心を打たれて詠んだ句である。

写真:可伸庵跡

徳善院跡

芭蕉が等躬宅に滞在した2日目、可伸庵を訪ねた帰りに近隣の八幡社、岩瀬寺、徳善院などを参詣したといわれる。白雲筆「岩瀬郡須加川町耕地之図」にも記されている。境内は東西二六間余り 南北一六間余り。本山修験宗京師聖護院の末院であり、二階堂氏の支族といわれる。

写真:徳善院跡

本陣跡

江戸時代に奥州街道の重要な宿場町であった須賀川宿は参勤交代の大名行列も宿泊した。大名が泊まる本陣は時期により変わっているが、その中のひとつはこの辺りにあったと言われる。

写真:本陣跡

東裏通り

江戸時代の須賀川宿は宿場町であり、大名、商人、参詣の旅人、荷を運ぶ人馬が行き交う活気に満ちた問屋や商店が並ぶ商人の町でもあった。店は表通り(奥州街道)に面し、その奥に蔵があり、裏通りから蔵の品物の出入れをしていた。

写真:東裏通り

敷教第二舎(須賀川郷学所跡)

寛政11年(1799)、白河藩主松平定信が、 一般庶民の子弟を教育するため開設した教育機関。郷学所の世話人には豪商の相楽七右衛門が任命されるとともに、師範には須賀川の町人が命じられた。開設後には須賀川の子どもたちだけでなく町人、役人なども入学し、子女ら多くの人々が読み書き算盤に加え、算術や儒学などの教育を受けた。文化元年(1804)には、 出席者増加のため増築されたとの記録も残されている。

写真:敷教第二舎(須賀川郷学所跡)

土蔵造りの商家

明治時代に建てられた須賀川の商店。
須賀川の町には土蔵造りや格子造りの家が多く見られた。

写真:土蔵造りの商家

奥州街道須賀川宿

須賀川の町は台地であるが、水が豊富で一町(約100メートル)毎にはねつるべ式の井戸があった。そのため須賀川城も築かれ、宿場町商人の町としても栄えた。「結の辻」の井戸はその一つであるといわれている。

写真:奥州街道須賀川宿

すかがわ絵地図の作成について

標柱を中心とした、まち歩きの促進のためNPO法人チャチャチャ21に委託し「すかがわ絵地図」を作成しました。

「すかがわ絵地図」は風流のはじめ館・文化振興課で手に入れることができます。

ぜひ、「すかがわ絵地図」を片手に、歴史と文化の街を感じるまち歩きにお出かけください。

まちなか絵地図(表綿)

まちなか絵地図(裏面)

このページに関するお問い合わせ

文化交流部 文化振興課
〒962-8601 須賀川市八幡町135
文化振興係 電話番号:0248-88-9172 ファクス番号:0248-94-4563
文化財係 電話番号:0248-94-2152 ファクス番号:0248-94-4563
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