市指定史跡団子山古墳

だんごやまこふん

左:山林の木々が茂る低い丘陵地の写真、右:団子山古墳までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

団子山古墳は、阿武隈川東岸に向かって張り出した舌状台地の先端裾部を利用した古墳で、残っている形状から円墳【えんぷん】と考えられてきました。
平成24年から実施している福島大学行政政策学類による発掘調査で、全長65mの前方後円墳【ぜんぽうこうえんふん】となることや、後円部墳頂【ふんちょう】に円筒埴輪が並べられた状態で出土するなど、新たな発見がありました。また、埴輪の特徴などから、古墳時代前期(4世紀代)につくられたものと推測されます。
古墳時代前期の古墳は中通り地方では確認例が少なく、福島県内でも最も南に位置します。なおかつ、東北地方では古墳時代前期の埴輪が出土した古墳は数例のみで大変貴重です。

市指定史跡神成横穴墓群

かんなりおうけつぼぐん

左:丘陵の斜面に掘られた、素掘りのトンネルのような入り口が複数並んでいる写真、右:神成横穴墓群までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

この横穴墓群は舘ケ岡から郡山市に通じる県道木ノ崎本宮線の市境にある丘陵の南斜面に造られています。横穴古墳は自然の丘陵を利用して掘り込んだ遺体埋葬用の穴で、古墳時代後期になってから盛んに造られるようになり、群を成すのが特徴です。この横穴墓群は、南崖面約300メートルに及ぶ広さを持つと考えられています。発掘調査の結果、玄室【げんしつ】(遺体を安置する部室)は不整な台形や長方形の平面形を持ち、天井部はアーチ型をしています。また副室を備えたものも検出されています。副葬品【ふくそうひん】は鉄鏃【てつぞく】、釘【くぎ】、坏【つき】、大甕【おおがめ】などが発見されています。横穴墓は市内に数ケ所確認されていますが、当時の家父長家族を背景とした地域的・政治的集団の統率者・族長クラスの共同墓地と考えられています。

市指定史跡岩崎山供養塔群

いわさきやまくようとうぐん

岩肌の露出した低い丘陵地の根元に、大きな自然石の塊が置かれ、その中央には文字が刻まれた石碑が垂直に立っている写真

概要

横田地区と木之崎地区との中間に岩崎山と呼ばれる丘陵地帯があります。
この丘陵一帯には、たくさんの供養塔が見られ、古くからこの地域が当地における霊場であったことが伺われます。

長年の風化作用により、判読できないものも数多く見受けられますが、通称「えぞ穴」と呼ばれる岩窟の奥壁には蓮華座を有する阿弥陀仏の種子と年号(弘安六季大才発末八月廿二日)、「光明真言」の梵字が彫られています。
また、山の麓には、大きな巖があり、その下には二つの窟が彫り込まれています(1号・2号供養塔)。向かって右側の窟(1号供養塔)には、大日如来の種子と「趣逆作善因、期来世之妙果、康永元年壬午五月日」の陰刻、「逆修七分全得之故也」の文字が墨書されています。
向かって左側の窟(2号供養塔)には、「亀松丸」の陰刻と、「亀松丸之 康永三年六月廿日」の文字が墨書されています。
これら供養塔の年号により岩崎山一帯が、鎌倉時代の終わりから江戸時代の終わり頃までの約600年間という長期に渡り、霊場であったことがわかります。

市指定史跡舘ケ岡磨崖仏及び供養碑群

たてがおかまがいぶつおよびくようひぐん

左:岩のくぼみの中に、座った姿勢の仏像が彫り込まれた磨崖仏の像を捉えた写真、右:舘ケ岡磨崖仏及び供養碑群までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

この磨崖仏は、安山岩の崖面を彫って造られたもので、和田大仏と並ぶ当地方の代表的な磨崖仏です。像の高さは約2.2メートル、肩幅約1.2メートルと和田大仏と比較してやや小柄な阿弥陀如来座像ですが、固い安山岩でできているため保存状態がよく、仏の姿がはっきりしています。目や耳の線がはっきりして、肩から膝へと流れるおおらかな外郭線は鎌倉時代の仏像の特徴をよくあらわしています。また、磨崖仏の周囲からは供養碑と考えられる梵字や蔓陀羅の刻まれた壁面が崩れ落ちた状態で点在しており、現在も人々の信仰を集めています。

市指定史跡和田大仏及び横穴墓群

わだだいぶつおよびおうけつぼぐん

左:岩壁を掘って作られた洞窟のような中に、坐像の像と中央には小さな石の祭壇があり、左側の像は立像の姿を思わせる磨崖仏を捉えた写真右:和田大仏及び横穴古墳群までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

この大仏は、阿武隈川西岸の丘陵岩壁に彫られた磨崖仏【まがいぶつ】で、高さ3.6メートルの阿弥陀如来【あみだにょらい】といわれていますが、仏像の保存状態がよくないため定かではなく、一説には大日如来【だいにちにょらい】を唱える人もいます。伝説によると、この大仏は大同【だいどう】3年(808)弘法大師【こうぼうだいし】が諸国行脚のときに彫ったと伝えられています。また、古記によると乳不足の婦女子が大仏の乳部を削り、粉を煮立てて飲むと乳がでるようになるという信仰があったようで、この大仏の乳部も削り取られていることから、当時の人々の生活に密接な関わりをもっていたことが伺われます。この大仏の彫られた崖面一帯には古墳時代に造られた横穴墓が数点存しています。

市指定史跡大塚古墳

おおつかこふん

左:平地と川沿いの風景の中に丸いドーム型をした大きな古墳があり、手前に屋根付きの構造物が見える写真、右:大塚古墳までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

この古墳は、現在墳丘裾部【ふんきゅうすそぶ】が削り取られているため当時の形を留めていませんが、市内に点在する古墳の中でも、和田地内にある蝦夷穴古墳【えぞあなこふん】と並んで大きく、直径約30メートル以上の円墳だったと考えられます。死者を埋葬する横穴式石室は、墳丘の南に開口し、入口(羨道部【せんどうぶ】)から石室【せきしつ】(玄室【げんしつ】)の奥壁まで約8メートル、石室の高さ約2メートルで、蝦夷穴古墳の石室とほぼ同じ規模をもっています。石材には凝灰岩を使用し、奥壁・床・天井・側壁の一部には巨大な一枚石を使用し、そのほかの外壁などには比較的小さな割石を積み上げています。6世紀後半ごろに築造された当地域の有力な豪族の墓であったと考えられます。

市指定天然記念物永泉寺のシダレザクラ

えいせんじのしだれざくら

青い空の下、石積みの高い擁壁の上に広がる満開の紅色の枝垂れ桜の写真

概要

  1. 樹種 エドヒガンのシダレ
  2. 樹高 17メートル
  3. 根回り 6.0メートル
  4. 目通り幹廻り 3.3メートル
  5. 推定樹齢 300年

開花時期

4月中旬

特徴

地上3メートルのところから二股に分かれた太い枝が四方に大きく広がり、樹冠の規模は東西20メートルにも達する。
花の開花時期は、例年4月中旬頃と、長沼西部地区にある桜としては比較的早く咲く桜として知られてきます。
満開時になると、長く垂れた枝に赤みがかったピンク色の花が無数につき、地面につくほど枝が垂れ下がるさまは、まるで滝を思わせる見事な景観です。

市指定天然記念物横田陣屋御殿桜

よこたじんやごてんざくら

満開の淡いピンク色の花をつけた巨大な枝垂れ桜が、日本家屋の赤い屋根を覆うように枝葉を広げている様子を捉えた写真

概要

  1. 樹種 エドヒガンのシダレ
  2. 樹高 12メートル
  3. 根回り 3.5メートル
  4. 目通り幹廻り 3.1メートル
  5. 推定樹齢 300年

開花時期

4月上旬

特徴

江戸時代に横田の地を所領していた、溝口邸の邸宅内に植えられていたため、「御殿桜」と呼ばれ、館の主に寵愛された桜と伝えられています。
長沼町で一番早く咲く桜として知られており、赤みがかった濃いピンク色の花が樹全体を覆う姿は圧巻です。

市指定有形文化財(歴)筑後塚供養塔群

ちくごづかくようとうぐん

左:四つの大きな自然石を木製の屋根付き構造物が覆い、石碑の列の奥には黒い説明板のようなものが配置されている写真、右:筑後塚供養塔群までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

この供養塔群は、板碑が二基と阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔【あみださんぞんらいごううきぼりくようとう】、阿弥陀二尊浮彫来迎供養塔の合計四基からなる供養塔群で、阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔には死者を西方浄土へ送る「送り来迎」の姿が刻まれています。鎌倉時代の末期、この地方一帯は天台宗の大きな拠点であり、石像美術の盛業をみせていました。天台宗は、二階堂氏の庇護を受けていたとも伝えられており、当地方に多くの阿弥陀三尊の供養塔が発見されていることからも伺い知ることができます。

市指定有形文化財(建)岩瀬牧場玉蜀黍貯蔵所

いわせぼくじょうとうもろこしちょぞうしょ

左:茅葺き屋根が二つ並んだ古民家の外観が、低い生垣で囲まれた敷地内に建っている写真、右:岩瀬牧場玉蜀黍貯蔵所までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

明治13年岩瀬郡鏡田村から前田川村にかけての六軒原【ろっけんばら】と呼ばれる原野一帯に、宮内省御料局直営の御開墾所が設置され、牧畜用農具及び乳牛をオランダから直輸入して欧州式大農経営が開始されました。このとき建築されたのが玉蜀黍貯蔵所で、高床式の格子壁を持つ茅葺き屋根の倉庫です。現在2棟が残っており、建物の床面積は東側の棟が33平方メートル、西側の棟は59.433平方メートルあります。床高90センチメートルの高床式のため、湿気や小動物から庫内のものを守ることができ、さらに格子状の壁面からは適度な空気が出入りし、食物などの貯蔵保存に適していたと思われます。

市指定有形文化財(歴)前田川五輪坊石幢

まえだがわごりんぼうせきどう

左:草の生えた斜面に石幢が立っている写真、右:前田川五輪坊石幢までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

鎌倉時代も終わりに近付くと、東国を中心とした武家勢力と京都を中心とした公家勢力との間に対立が生じ国内の政情が不安定になりました。中央での争乱は東北にも及び、当時の須賀川地方を治めていた二階堂氏のところへも緊急に兵士の派遣を求める命令があったと考えられます。須賀川地方からは3,050人の兵士が徴用され、これから戦場に臨むにあたり兵士たちは、逆修供養【ぎゃくしゅうくよう】(生前に極楽往生を願い供養を行うこと)を受けたといわれています。この時、建立したのがこの石幢です。石幢の四面には死後極楽往生したいと願う兵士たちの切実な願いが刻み込まれています。

市指定有形文化財(工)青津保壽刀装具コレクション

あおつやすじゅとうそうぐコレクション

大小さまざまな透かし彫りや象嵌が施された円形の鍔が6点、白い背景の上に円形に並べられている写真

青津保壽氏は、明治26年、須賀川市馬町に生まれ、明治42年に馬町にて青津陶器店を経営、家業の傍ら古美術の研究、収集を行いました。この刀装具コレクションは、青津氏が70年間にわたって全国各地から収集した、鍔【つば】を中心とするもので、その中の優品624点が昭和56年須賀川市に寄贈されました。古いものでは室町時代のものがありますが、江戸時代中期から後期のものがコレクションの中心です。鍔のほか、小柄【こづか】(腰刀や打刀等小型の刀の柄)などが含まれており、中には財団法人日本美術刀剣保存協会の「貴重小道具」の認定を受けているものもあります。精巧な彫刻・透彫の施された逸品も多く、刀装具研究において貴重な資料となるものです。

市指定有形文化財(歴)関下五輪山供養塔正覚の碑

せきしたごりんざんくようとうしょうかくのひ

岩壁の低い部分に、二つの長方形の板碑が並んでおり、左の板碑には文字が刻まれている写真:関下五輪山供養塔正覚の碑までの周辺の道路と地名が示された簡略な地図

この供養塔は、一般に板碑(板石塔婆【いたいしとうば】)と呼ばれるもので、凝灰岩を使用した高さ2.1メートル、幅0.75メートルの、市内に数多くある板碑のなかでも 特に大きなものです。板碑の正面上部には胎蔵界大日如来【たいぞうかいだいにちにょらい】を表す梵字【ぼんじ】(種子【しゅじ】)「【アーク】」が薬研彫【やげんぼり】(V字形に彫ること)され、その下方には「右當先考五七忌正鷹二年(1289)巳丑九月廿九日 敬白 為成等正覚也」と刻まれていることがわかります。大日如来は真言密教の中心となる仏であることから、当時この地域の仏教を探る上で重要な役割をもっています。

市指定有形文化財(歴)田植塚

たうえづか

庭園のような所に背の高い切り株状の朽ちた木があり、松のような木の枝と、低い生垣が配置された写真

「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉【まつおばしょう】と河合曽良【そら】の二人は、4月20日(陽暦6月7日)福島県に入り、22日に須賀川の俳人相楽等窮【さがらとうきゅう】宅に泊まりました。芭蕉を迎えた俳人等窮の「白河の関いかにこえつるや」という問いに対して、芭蕉は「風流の初めやおくの田植えうた」と返句しました。その句が刻まれた句碑が田植塚です。安政2年(1856)市原多代女【たよじょ】によって建立されたもので、句碑は市内池上町にある十念寺【じゅうねんじ】にあります。なお、芭蕉は7泊8日須賀川の地にとどまり、須賀川の可伸庵(かしんあん)で歌仙を巻いたり(句会)、八幡さま・芹沢の滝・乙字ヶ滝【おつじがたき】等を訪ねて句を詠んでいます。

市指定有形文化財(考)成田型ナイフ型石器

なりたがたナイフがたせっき

先端が尖り、茶色で荒削りな形状をした5点の石器が、等間隔に横一列に並べられた成田型ナイフ型石器の写真

首藤保之助【しゅどうやすのすけ】氏は、大正6年から昭和30年代にかけて全国の遺跡を訪ね、考古資料を中心に5万点にも及ぶ資料を収集しました。自宅に「阿武隈考古館」を開設して公開していましたが、昭和33年に須賀川市に阿武隈考古館の資料を寄贈しました。これが契機となり須賀川市立博物館が設置されました。この石器は、阿武隈考古館コレクションの中の一つで、成田遺跡(福島県鏡石町)から発見された旧石器です。日本に旧石器時代の存在がまだ確認されていなかった、昭和22年3月の発見例です。石器はいずれも硬質頁岩【けつがん】で縦に長く剥離して、打面周辺のみを調整加工し、先端部は全く加工されていません。特にその中に剥離面が相互に接合する石器が数点含まれており、石器の製作過程を示す資料であると同時に一括資料としては珍しい資料です。

市指定有形文化財(歴)亜欧堂田善の銅版画製作用具

あおうどうでんぜんのどうはんがせいさくようぐ

銅版画を製作するための4つの道具があり、コンパスや定規のような黒い金属製の器具が、定規とともに並べられている写真

亜欧堂田善は、寛延【かんえん】元年(1748)~文政5年(1822)に生存した江戸時代の代表的な洋風画家で、岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)で酒造業のちに染物業を営む5代永田惣四郎の次男として生まれました。本名を永田善吉といい、亜欧堂田善、亜欧隣人などと号し姓名を略して田善と称しました。田善は、遠近法、陰影法の西洋風の画法を駆使し、精密、巧緻な表現方法で洋風銅版画を現し、司馬江漢(しばこうかん)によって確立された洋風風景画に江戸の風俗という新生面を加え、洋風風景銅版画を完成させ田善独自の風景画の世界を開きました。
この用具類は、田善が銅版画を製作する際に用いた道具類(デバイダ・コンパス・定規等)です。当時の銅版画製作の手がかりとなる貴重な資料です。

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