松明あかしの由来

ページ番号1003837  更新日 令和4年1月17日

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松明あかしの由来

 晩秋の夜空を焦がす須賀川の松明あかし。四百三十余年前の戦国の世の悲運を偲ぶ、須賀川市が全国に誇る伝統行事として知られています。

松明が燃えている様子の写真

 今から四百三十余年前、豊臣秀吉が全国統一に向け九州を平定し、小田原北条氏へ臣従を求めていた頃、東北地方では、伊達政宗が、南奥羽へその勢力を拡大しようとしていました。

 それからさかのぼること、永禄九年(1566)、須賀川城主・ 二階堂盛義(にかいどうもりよし)は、対立していた会津芦名(あしな)家と和睦し、六歳の子 盛隆(もりたか)を人質として会津に送りました。 

 天正二年(1574)、会津黒川城主・芦名盛興(もりおき)の死に伴い、盛隆は請われて芦名盛隆として黒川城主となりました。その結果、芦名家との関係は一層強固なものとなり、二階堂家の威勢が高まり、その領地は、岩瀬郡のほか、田村、安積の約五万石にまでに及ぶようになりました。

 天正十二年(1584)、盛隆は二十四歳で家臣に殺害されてしまい、家督を継いだ盛隆の子 亀王丸(かめおうまる)(亀若丸(かめわかまる))も三歳で病死してしまいます。その跡継ぎとして、伊達家からは政宗の弟小次郎を、佐竹家からは義重の二男義広をとの強い要望がありましたが、佐竹義広(よしひろ)が十三歳で婿入りすることとなりました。後年、政宗は芦名家を滅ぼした理由の一つに、この跡継ぎをめぐる問題を挙げています。

 天正十七年(1589)六月、伊達政宗が二十三歳、芦名義広が十五歳の時、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で戦いました。この戦いに勝利し、芦名家を滅ぼした政宗は、須賀川を支配しようと、九月には二階堂家の重臣に内通服属の密書を遣わすなど、策略をめぐらしていました。

 このときの須賀川城主は、盛義亡き後、須賀川城主として8年にわたり、この地を治めていた後室の大乗院(だいじょういん)でした。大乗院は政宗の叔母であったため、政宗は、二階堂家の家臣を通して、大乗院に和睦するよう求めてきましたが、大乗院はそれに応じませんでした。

 十月二十一日、大乗院は、城内に家臣や町民を集め、政宗と戦うことを伝えます。これに対して、二階堂家の家臣である矢部伊予守(いよのかみ)は、大乗院に政宗への降伏を進言しました。しかし大乗院は、政宗が二階堂家の宿敵である田村家に味方し共に攻めたことや、息子の盛隆が継いだ芦名家を滅ぼしたこと、また、自らが降伏することにより、佐竹家にも攻撃が及ぶおそれがあり、これまでの恩に報いることができないとして、籠城することを訴えました。

 このうち、大乗院に従うことを決意した二階堂家の家臣たちは、千用寺(せんようじ)と妙林寺(みょうりんじ)の法印(ほういん)立ち会いのもと、一致団結して政宗と決戦するとの誓文(せいもん)を熊野牛王(ごおう)に書き、それを燃やし灰にして酒に入れて呑み合い誓いを交しました。

松明行列の写真

 この間も政宗は、次々と重臣に密書を遣わし、内通服属を強く求めてきましたが、二階堂家には、大乗院の兄弟である岩城家から竹貫中務少輔(たかぬきなかつかさしょうゆう)と植田但馬守(うえだたじまのかみ)が、義理の兄弟である佐竹家から河井甲斐守(かわいかいのかみ)が加勢するなど、合戦に向け緊迫した時間が流れました。

 十月二十六日未明、伊達政宗は大軍を率いて、「山寺山王山」のあたり(現在の米山寺公園・日枝神社付近)に本陣を構えました。

 決戦場となったのは、「八幡崎・大黒石口」(現在の八幡山、須賀川病院付近)と「雨呼口」(現在の神田産業付近)で、辰の刻(午前八時頃)に政宗による攻撃が開始されました。

八幡崎・大黒石口では、伊達勢の新国上総介(にっくにかずさのすけ)や白石若狭守(しろいしわかさのかみ)などが攻め込んだのに対し、二階堂勢の須田美濃守や竹貫中務少輔などがこれを迎えうちました。中でも中務少輔の家臣・水野勘解由(みずのかげゆ)など強弓の者たちの活躍により、伊達勢に大きな打撃を与えました。

 一方、雨呼口では、二階堂勢の攻撃により退却した伊達勢の大内備前守(おおうちびぜんのかみ)や片平大和守(かたひらやまとのかみ)などに替わり、伊達成実(しげざね)が押し寄せました。

御神火隊の写真

 このとき、雨呼館の守将で、政宗に内通していた守屋筑後守(もりやちくごのかみ)は、側近の織部と金平の兄弟に命じて、須賀川の町に火を放ちました。折から強く吹きすさぶ西風により、須賀川城は炎に包まれ、鎌倉時代からこの地を支配していた二階堂家・須賀川城は遂に落城しました。また、その後も八幡崎城(現在の八幡山)に踏みとどまり戦っていた二階堂勢も、その甲斐なく殆どの兵が戦死しました。

 落城の時、本丸にいた大乗院は自害しようとしましたが、家臣たちに止められた後、城外に逃れ、仁井田から杉目(すぎのめ)城(現在の福島市)、いわき市の岩城家、常陸(現在の茨城県)の佐竹家に移り住みました。

 その後、大乗院は、慶長七年(1602)、佐竹家の国替えに従い、秋田へ向かう途中病気になり、須賀川の長禄寺でその生涯を閉じました。

 江戸時代、須賀川では旧暦の十月十日に、この戦いで亡くなった人々を弔うため、「炬火(きょか)」を投げ合う行事が行われていました。

 松明あかしという名の由来は定かではありませんが、この火祭りは、その後、幾多の変遷を経て、今では十一月の第二土曜日に、二階堂家の戦死者のみならず、伊達家の戦死者を含めての鎮魂の想いと、この行事を守り伝えてきた先人への感謝の気持ちを込め、五老山で行なわれています。

 また、八幡町町内会では平成11年から、八幡崎城の戦いで亡くなった兵士たちの霊を慰めるため、「八幡山衍義」として慰霊祭を執り行っています。

 なお、この記述は、当時の古文書や仙台藩の正史である『伊達治家記録(だてじけきろく)』などのほか、二階堂氏の興亡を描いた『藤葉栄衰記(とうようえいすいき)』などの軍記物も参考にしています。

三千代姫の悲話

 『藤葉栄衰記』などには、須賀川城の落城からさかのぼること約140年前の二階堂家の内紛をめぐる悲話が伝えられています。

 嘉吉(かきつ)三年(1443)、鎌倉に居を構える二階堂式部大輔(しきぶたいふ(たゆう))が亡くなり、12歳の二階堂為氏(ためうじ)が跡を継ぎました。

 為氏は、当時岩瀬郡の管理を執り行っていた治部大輔(じぶたいふ(たゆう))の執政に異を唱えるため、式部大輔の弟の民部大輔(みんぶたいふ(たゆう))を岩瀬郡へ派遣しましたが、諫めることはできませんでした。

そこで、文安元年(1444)3月、為氏自らが鎌倉を出発しましたが、治部大輔に抵抗されたため、和田へ陣を移しました。

 その後、為氏と治部大輔は、当時12歳の治部大輔の娘(三千代姫)と為氏が結婚した上で、3年後に、治部大輔が須賀川城を為氏に渡す約束をして和睦しましたが、3年を過ぎても、治部大輔は城を渡す様子はありませんでした。そのため為氏は、やむなく妻(三千代姫)と離縁をやむなきものとしました。 

 そして、父親のもとに送り返す道すがら、暮谷沢で治部大輔の家来たちの待ち伏せにあい、戦いが起りました。為氏の家来たちが劣勢となりましたが、戦いの最中、治部大輔の家来たちの陣中に大きな雷が落ちました。人馬もろとも吹き飛ばされた治部大輔の家来たちは、田畑の中をはうように逃れ、一方の為氏の家来たちも、離縁された御台を連れ帰ることも出来ず、輿を置いたまま立ち戻りました。

小松明行列の写真

 その場に残された姫は、もはや寄る辺もなく辞世の歌を残して自刃し、乳母や姫の側に仕えていた武士もこれに殉じました。僅か15歳の生涯でした。

 この悲劇を知った為氏は思い悩み、戦う気力さえ失いましたが、家臣たちの働きかけもあり、文安五年(1448)に治部大輔を倒し、須賀川城に入城することができました。

 五老山と妙見山の間に位置する暮谷沢は、現在「栗谷沢」とその名を変えていますが、姫の霊を弔うため、昭和30年には須賀川史談会によって「暮谷沢の碑」が、昭和63年には三千代姫を偲ぶ会によって「三千代姫堂」がそれぞれ建てられています。

付記 二階堂氏の須賀川をめぐる争いについて

 「三千代姫」の悲話の舞台となった室町時代、二階堂氏は二つの系統に分かれていたと考えられています。

一方は為氏の系統で、父の式部大輔が鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)から岩瀬郡を与えられたとして、『藤葉栄衰記』などの記載があります。

 もう一方は、古くから岩瀬郡を支配し、持氏側と対立したものであり、治部大輔はこの系統にあたると考えられています。 

 永享(えいきょう)十年(1438)、持氏は室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)に対して反乱(永享の乱)を起こしましたが敗北し、鎌倉の永安寺(ようあんじ)で自害しました。

 為氏にとって父の主人である持氏を失った影響は大きく、その勢力は衰えたと考えられます。そのため為氏は、自らの権力基盤を求め、須賀川に下向し、「治部大輔」を倒したとも考えられています。

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