須賀川人物伝 柳沼源太郎

ページ番号1002503  更新日 令和3年5月17日

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柳沼源太郎 Yaginuma Gentaro

牡丹に一生を捧げ、世界一の牡丹園に

写真:柳沼源太郎

須賀川の牡丹園を語るうえで、最も重要な人物が、柳沼源太郎です。
もともとこの牡丹園は、明和3年(1766)、須賀川の薬種商「伊藤祐倫」が、牡丹の苗木を薬用のために、現在の兵庫県宝塚市から買い求め、栽培したことが始まりと言われています。そして明治時代の初め、この牡丹園が伊藤家から柳沼家に譲渡され、薬用目的のものが鑑賞用へと切り替わることになったのです。

源太郎は、須賀川町の2代目収人役で、中町の商家「糸八木屋」の経営者・柳沼新兵衛の長男で、新兵衛亡き後、牡丹園経営を引き継ぎました。現在の牡丹園の名声を築き上げた人であり、その取り組みには寝食を忘れる程であったと言われています。

イラスト:牡丹園

明治8年生まれの源太郎は、牡丹園の経営を軌道に乗せるには、専門的な栽培の勉強をしなければと、15歳の時に上京し、開成中学を経て東京農家大学に学び、そして帰郷後は、家業の糸八木屋を弟に任せ、自分は牡丹園に移り住み、牡丹栽培一筋に励みました。牡丹の時期に満足のいく見事な花を見せるには、ただひたすらに、四季を通じて手入れするしかないと、作業員たちとともに励み、特に冬の手人れを怠らなかったと伝えられています。

写真:源太郎の胸像

また、源太郎は、牡丹栽培に精力を傾ける一方で、俳人としても優れた才能を発揮し、大正時代には、原石鼎の門に入り、破籠子(はろうし)の名で数々の名句を残しています。例えば、牡丹園内に建立された源太郎の胸像に刻まれている、「園主より身は芽牡丹の奴かな」という句は、「人は私のことを牡丹園の園主と呼ぶが、そんなおごり高ぶった気持ちはなく、愛らしい芽牡丹に心から仕えている一人に過ぎない」という牡丹を愛する心を表現しています。

そして昭和7年、この牡丹園は、文部省からその価値が認められ、国の「名勝」の指定を受けることになったのです。しかし、不況が続いた当時は、牡丹園も例外ではなく、経営難の苦境に立たされていました。現に源太郎は、経営補助申請と、町への移譲の願書を提出していますが、町でもこの総面積8.64ヘクタールの牡丹園を管理運営することは、財政上大変困難な時代でした。幸いにも、柳沼家には資産家が多く、一族共同で手を取り合い、この難局を切り抜けました。

牡丹園に一生を棒げ、また俳人としても活躍した源太郎は、その美しさを後世へと引き継ぎ、昭和14年、64歳でその生涯を閉じました。
そして、昭和32年に財団法人化を経た牡丹園は、その後も源太郎の心とともに受け継がれ、国の名勝として現在に至っています。

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