須賀川人物伝 円谷幸吉

ページ番号1002510  更新日 令和5年3月24日

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円谷幸吉 Tsuburaya Koukichi

東京オリンピック マラソン銅メダリスト 栄光と孤独のランナー

写真:円谷幸吉1

昭和39年、東京オリンピックのマラソン大会。裸足のランナーとして有名なエチオピアのアベベ選手に続き、国立競技場に入って来たのは、日本国民の期待にこたえ、力走する円谷幸吉選手でした。

ラジオやテレビのアナウンサーの声が次第に大きくなり、日本中が、その放送に釘付けとなりました。後方から追い上げるイギリスのヒートリー選手との、今も語り継がれるデッドヒートの末、ついには抜かれたものの、堂々たる第 3位。陸上競技日本唯一のメダルを手にすることとなった円谷選手は、沸き起こる大きな歓声を背に、表彰台へと登ったのです。

円谷選手は、昭和15年、この須賀川市に生まれました。そして、県立須賀川高校2年生の夏、福島縦断駅伝の代走を務めた際に、区間新記録を出したことを機に、本格的な陸上競技への道を歩み始めます。高校を卒業後、陸上自衛隊郡山駐屯部隊に入隊しましたが、 円谷選手にとって、この自衛隊は、規律正しい生活のなか、十分な練習時間が取れる最高の職場だったのです。

写真:円谷幸吉2

昭和36年の青東駅伝では、3区間を走り、その3区間すべてにおいて、新記録を樹立し、特に延べ15人を追い抜いた記録は、今も破られていません。

その翌年、円谷選手は、自衛隊体育学校の開校と同時に、第1期生として入学する一方、中央大学の経済学部にも入学し、陸上と勉学に励みました。そして数々の大会で、世界記録や日本記録を塗り替えます。昭和 39年8月のオリンピック候補選手記録会では、1万メートルで世界最高記録を出した後、マラソンのオリンピック代表選手選考会に臨み、2位の成績を修め、オリンピックヘの出場を決めました。

そして迎えた本番での大活躍が、劇的なデッドヒートの場面とともに、今日まで語り継がれているのです。

写真:円谷幸吉銅像

しかしその後は、休む間もなく、国際試合への出場や講演会などによるハードスケジュールが続き、持病の腰痛を悪化させ、ついには、左足、そして右足と続けざまの、アキレス腱切断というけがに見舞われました。手術を受け、次のメキシコオリンピックに向けて練習に励みますが、病状は一向に良くなりませんでした。

昭和43年1月8日、幸吉は、「疲れきって、もう走れません」という家族への遺書を残し、自ら命を絶ちました。享年27歳。余りにも短く、早過ぎる生涯でした。

円谷選手の遺品の数々は、これまで生家であった「円谷幸吉記念館」で展示されてきましたが、須賀川市に寄贈され、現在、円谷幸吉メモリアルアリーナ内「円谷幸吉メモリアルホール」において公開されています。また、須賀川市が毎年10月に開催する「円谷幸吉メモリアルマラソン」には、全国から、多くのランナーが集い、その業績をしのんでいます。

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