須賀川人物伝 須田珙中

ページ番号1002505  更新日 令和2年3月12日

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須田珙中 Suda Kyochu

須賀川が生んだ日本画会のホープ

写真:すだ きょうちゅう

日本美術院同人で、多くの名画を残している須田珙中画伯は、本名を善二と言い、明治40年1月、須賀川の通称三丁目にあった雑貨商の3男として生を受けました。当時の三丁目は、奥州街道・南口の商店街として栄えており、珙中は、近郷近在からの買い物客で繁盛するにぎやかな環境のなかで、幼少時代を過ごしていました。

そして大正11年、須賀川町立商業学校を卒業後、私立石川中学校の4年に編入しました。このころから、珙中は、画家の道への志を強くし、この石川中学校で2年間学んだ後、東京美術学校本科日本画科に入学しました。

そしてこの在学中に、頭角を表し始め、1年生時には、作品「ぶどう畑」が日本画会展で入選しています。2年生時にも、第2回聖徳太子奉讃展で入選しますが、「在学中、許可なく官展への出品を禁ず」の学則に触れ、1週間の停学処分を受けるといったエピソードを残しています。

在学中は、松岡映丘に師事し、昭和9年の卒業まで、帝展への連続入選を果たすなど、大いに活躍し、まさに日本画界の将来を担う若きホープとして期待されました。

卒業後は、前田青邨の薫陶を受け、昭和26年からは、母校である東京芸術大学美術学部に教官として迎えられました。この学生たちへの指導により、珙中自身もまた学び、作風の変化した、多くの優れた作品を残しています。
具体的には、日本美術院展に出品するようになった昭和27年を機に、それまでの古典的な作風が、変わり始めたと言われています。

珙中は、昭和39年7月、心筋梗塞のため、57歳の若さで急逝。その早過ぎる才能の喪失は、日本画界への大きな打撃となりました。
特に昭和37年の出品作品「吹雪」は、近代的な表現の可能性を探求し続けた珙中の大きな成果の一つと言われ、今もなお人々に愛されています。

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